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ウィリアム・カペル バイオグラフィー/ 幼年〜少年期

          


** バイオグラフィー掲載に先立って **
    ウィリアム・カペルの生涯についての詳しい資料は、残念ながらあまり存在しないのが現状である。邦訳されたものとなるとそれは更に顕著で、日本盤としてリリースされたいくつかのCDの解説によって、彼の生涯のアウトラインと、部分的にクローズアップされた断片が紹介されているのみといってよかろう。筆者は、幸運にもティム・ページ氏による「カペル大全」とでも呼ぶべき優れた洋書を手にする事ができた。それは、アナ・ルー・カペル夫人を始めとする多くの関係者へのインタビューが基になった信憑性の高い人物伝、演奏会のポスターやパンフレットはもとより、数々のプライヴェート写真、直筆書簡、自作の直筆譜、果ては小学校時代の成績表に至るまで、ウィリアム・カペルの人物像を具に伝える大変貴重な資料コレクションである。
    以下に記す内容の殆どは、このティム・ページ氏の著作に負っていることを、まずここに明言しておかなくてはならないだろう。文章の構成、内容も、原作をほぼそのまま使用している部分が多い。カペルについての情報が大変に少ない我国の状況においては、詳しいバイオグラフィーの作成にあたってこれ以上の方法は望めないのではないかという考えに達したからである。しかし、原作の忠実な邦訳を公開するという方法は、素人の筆者にとっては大変荷が重いことであった。結局、試行錯誤の上ここに陽の目を見ることになった文章は、ページ氏のオリジナルの文意を汲み取り、柔軟に日本語へと置き換える作業と、筆者による若干の補足とコメントをそこへ挿入する作業によって出来上がったものである。
    このような実情を踏まえると、本来であればティム・ページ氏に掲載の許可を求めるのが礼儀というものであろうが、残念ながら現在のところ筆者にはページ氏に連絡を取る手段が無い。しかし、僭越ながら、ウィリアム・カペルという人物に魅せられた者同志、彼の音楽についてより多くの人に伝えてゆきたいという願いは共通のものではなかろうか? そのような、いささか独断的解釈のもと、殆ど海賊版といってもいいほどのバイオグラフィーをここに掲載することに決めた。ティム・ページ氏の優れた業績を讃えると共に、読者の方々が知られざるカペルの素顔に触れるのに少しでもこのページがお役に立てば嬉しく思う。

【参考文献・写真出典】
Tim Page, William Kapell: a Documentary Life History of the American Pianist (Maryland, USA: International Piano Archives at Maryland College Park, 1992)

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    マンハッタンはアッパーイーストサイド、レキシントン通り1144番にその書店はあった。経営するのはポーランド/ロシア系の移民、ハイマン・カペルとその妻エディス・ウルフソン・カペル。彼らこそは、まぎれも無く後年「アメリカ史上最高のピアニスト」と称されることになるウィリアム・カペルの両親である。ウィリアムはカペル夫妻の第一子として1922年9月20日ニューヨークに生を享けた。

母エディスと     母エディスは赤ん坊のウィリアムが音楽に敏感に反応することに気付いた。ヴィクトローラからモーツァルトが聴こえるとウィリアムのぐずりはきまって治まるのだった。またウィリアムは、歩くようになると、ピアノをみつけては伸び上がり、小さな手で鍵盤に触れて音を出すのが大のお気に入りだった。

    ウィリアムが実際にピアノを習い始めたのは7、8歳の頃である。しかし、意外なことに最初はあまりレッスンに身が入らなかったようだ。彼の両親はもともと音楽教育に積極的ではあったが、ウィリアムがあまり練習したがらなかったためにレッスンは早々に打ち切りとなってしまった。ところがどうしたことか、ウィリアムは10歳ぐらいの時、再びピアノを習いたいと両親にせがむようになる。これは丁度1932年、世界大恐慌のどん底のことだった。カペル一家は経済的に決して楽な状態でなかったが、両親はウィリアムの熱心さに負けて安いレッスン料で見てくれる先生を探し始めた。

    彼らが探し当てたのはヨークヴィル・セトルメント音楽学校で教えていたドロシー・アンダーソン・ラフォレット女史。これは運命的と言ってもよい出会いで、この出会いがなければピアニスト・ウィリアム・カペルは存在しなかったかもしれない。女史はウィリアムの才能を直ちに見抜くと、週3回の自宅レッスンを始めた。ウィリアムの上達振りはすこぶる目覚しかった。レッスンを始めて僅か6週間後に、ウィリアムは数名の学生たちと一緒にピアニスト、ジョゼ・イトゥルビのアパートメントで演奏する機会を得た。他の学生たちの母親が嫉妬に狂うほど、当日のウィリアムの演奏は抜きん出て素晴らしいものであったという。そして、演奏会の後、ご褒美としてイトゥルビのディナーに招待され、共に七面鳥を分け合う栄に浴した。このエピソードは後年になって新聞誌上でカリカチュアとして掲載されている。

ラフォレット女史と     ウィリアムの上達振りからも推測される通り、女史のレッスンは大変厳しいものであった。レッスンは時に3〜4時間にも及び、ウィリアムはその間ずっとピアノを弾き通しだった。後にウィリアムの最愛の妻となるアナ・ルー・ディハヴノンによれば、カペルの熟達した技術の基礎は女史の指導の賜物である。ウィリアム本人も後に”ラバー・リスト(ゴム手首)”の技術を習得できたのは女史のお蔭であると語っている。更に、ウィリアムは1935年の夏の6週間を、女史と共にカルフォルニア・ラ・ホーヤで過ごし、その地で最初のリサイタルを行う。会場となったのは”カサ・デ・マニャーナ”と呼ばれていた海辺のホテルで、その建物は現在も養老施設として姿を残している。

    それ以降、ウィリアムの音楽の勉強はいよいよ本格的なものとなってきた。ニューヨークに戻ると、カペル夫妻は私立のコロンビア・グラマー・スクールへの転入を手配していた。ウィリアムの学業の成績は大変素晴らしいものであったが、更にピアノの練習時間を確保するための配慮である。ウィリアムの練習は、凄まじかった。弟のバーナードによれば、カペル一家はイースト80番通りとイースト79番通りの家を2年ごとに行ったりきたりしなくてはならなかったという。ウィリアムの練習があまりにも激しく長時間に及んだので、それに辟易したどちらの家主も賃貸契約の更新に首を縦に振らなかったのである。

弟のバーナードと     奇跡的にも、この時期の録音がひとつだけ残されている。それは1937年にラジオ放送されたベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番の緩徐楽章とフィナーレである。明らかにまだ少年の演奏ではあるが、湧き上がるような自然な感性の中に天才が見え隠れする、大変貴重な録音である。聴き手はそこに、まだ磨き抜かれていない宝石の原石を見出すに違いない。(収録CD: Arbiter108/ Kapell in Recital

    更に興味深いのは、ウィリアムがピアノ演奏の他に作曲にも関心を持っていたということである。その関心はクラシック音楽は勿論、ポピュラー・ミュージックの分野にも及んだ。1935年にはニューヨークの楽譜出版社宛に自作のロシア風小品の楽譜を送っているが、担当者から丁寧に出版見合わせの意向と、励ましの言葉が添えられた手紙が送られてきた。1930年代後半に書かれたと思われるピアノ独奏のための”無言歌”は、いうまでもなくメンデルスゾーンの同名作品をモデルにした小品であるが、曲の雰囲気としては多分にラフマニノフの影響が見られる。ウィリアムの音楽的嗜好と、ニューヨーク音楽界の当時の活気を伝える逸話である。

    話をもとに戻そう。ラフォレット女史は、彼女の師であるジョゼフ&ロジナ・レヴィン、そしてかの有名なルービンシュタインのところでウィリアムに演奏させる機会を与えた。ルービンシュタインとウィリアムとの交遊はその後も長く続いたが、それは常に穏やかというわけにはいかなかったようだ。ルービンシュタインの(それほど信用できない)回想録”My Many Years”によれば、
「ウィリー・カペルはすぐになれなれしく振る舞い、自分の師匠の悪口で私を楽しませようとした。その師とは、偶然にも私の友人であるジョゼフ・レヴィンのことだった。私が彼を嗜めると、彼はこうまくし立てた。
『彼は僕を理解していません。僕は彼とコミュニケーションできたためしがない。あなたがもし僕を弟子にしてくれるなら、僕は本当に上達してみせましょう。』
私はただちに断った。
『君、落ち着きたまえ。そしてよく聞きなさい。私は演奏会で忙しく、とても君の良い教師とはなれない。だが、いつでもできる限り、君の演奏を聴けるよう心がけよう。』」

    一方でウィリアムは、ルービンシュタインのことを特別な才能を持ってはいるものの、それ以上に怠慢な音楽家だとも考えていた。ウィリアムがルービンシュタインに対してを批判的であるという噂を伝え聞き、ルービンシュタインが激怒した話が伝えられている。(カペルとルービンシュタインの関係については1984年2月にクラヴィーア誌に掲載されたジェローム・ローウェンタールの優れた評論、”ウィリアム・カペルの思い出”が詳しい。)

    ウィリアムは16歳の時、彼の音楽に大きな影響を与えることになる人物と出会う。フィラデルフィア・コンセルヴァートリー及びジュリアード音楽院で師事したオルガ・サマロフ女史(元ストコフスキー夫人)である。ウィリアムの師がラフォレット女史からサマロフ女史に変わった理由については、明らかではない。弟のバーナードは、ラフォレット女史とうまくいかなくなりつつあった時期ではないかとする一方、アナ・ルー夫人はラフォレット女史自らが自分の下を卒業してサマロフ女史に師事するようウィリアムに勧めたのではないかと考えている。

    ウィリアムとバーナード兄弟がカーネギーホールの演奏会にもぐりこむようになったのはこの頃だ。バーナードは次のように回想している。
「それはたいてい簡単なことでした。でもある時、偶然ドア係が僕たちを見つけ、外につまみ出したのです。ウィリーがカンカンになってそのドア係に『僕はそのうち、このステージの上で演奏することになるんだ!』と言い放ったことを良く覚えています。そして、もちろんそれはそう遠くない時期に実現したのです。」

サマロフ門下生。中央がサマロフ、その左がルンデ。カペルは最前の右側に座っている。     1940年にウィリアムはジュリアード音楽院に入学し、引き続きサマロフ門下として研鑽を積んだ。そこで彼は同門のソルベイグ・ルンデと出会う。ルンデはカペルの最初の恋人となり、彼らの情熱的な交際はそれからおおよそ7年間続くことになる。青春真っ只中のウィリアムの演奏を知るのに打ってつけともいえるショパンの録音が2つ残っている。一つは英雄ポロネーズ、そしてもう一つはホ短調のプレリュード。いずれも1940年に録音されたものである。ピアニスト及び作曲家であったA.チェーズンズの言葉を借りれば、当時のウィリアムの演奏は”発電所、それも詩情を湛えた発電所”。情熱的な力が漲り、かつ情緒溢れるショパンが聴ける。(収録CD: Pearl-GEMM CD9194 / William Kapell

    ウィリアムはジュリアードでの初年度にフィラデルフィア・オーケストラのユース・コンテストに優勝した。それによってユージン・オーマンディ監督率いるフィラデルフィア・オーケストラとの共演デビューが約束された。1941年2月10日に行われたそのデビュー公演は大成功を収め、その夏のチャールス・オコーネル監督ロビン・フッド・デル・シリーズの独奏者として再びウィリアムに声がかけられた。(オコーネルは、ウィリアムが専属契約を結ぶことになるRCAビクターの芸術監督であったが、これが彼らの最初の出会いである。)

    1941年秋、ついにウィリアムはニューヨークで本格的に活動を始める糸口を掴んだ。ワルター・ナウムブルグ音楽基金賞の勝者としてタウン・ホールでデビューする資格が与えられたのだ。10月28日に行われたタウンホールでのリサイタル・プログラムは次の通りである。バッハの平均律第1巻より嬰ハ短調と組曲イ短調、ブラームスの作品1のソナタ、休憩を挟んでショパンのバラード第2番、ノクターン作品62-1、二つのマズルカ、バルカロール、ラフマニノフの変ホ長調の前奏曲、アルベニスのエボカシオンとトリアーナ、メトナーのフェアリーテール、そしてショスタコーヴィチの数曲の前奏曲。

    それは19歳の青年にしては挑戦的で、通常ありえないようなプログラムだった。当時、バッハは演奏会で殆ど取り上げられない作曲家であったが、ウィリアムは平均律からの一曲とイ短調の組曲を同時にプログラムに載せている。(バッハを演奏会レパートリーへと昇華させたグレン・グールドが14年後に同じステージでニューヨーク・デビューを飾っていることを考えると、ウィリアムの先見の明は特筆すべきである。)また、プログラムのメインはブラームスのハ長調ソナタ作品1で、これは素晴らしい作品ではあるが、演奏効果の面で若手演奏家のデビュー・リサイタルのメインとしては地味な選曲である。更に注目すべきは、キャリアの幕開け当初から、既にウィリアムが同時代人たちの音楽にはっきりとした興味を示していることである。取上げられた7人の作曲家のうち3人、すなわちメトナー、ラフマニノフ、そしてショスタコーヴィチはまだ当時の現役作曲家であった。

タウン・ホールでのデビュー公演。     この一風変わった、しかしながら意欲的なデビュー公演は成功裡に終了し、評論家からも絶賛を博した。新進気鋭の評論家ハワード・タウブマン(後の1955年から1960年にニューヨーク・タイムスの首席評論家を務めることになる)は、ウィリアムを「ナウムブルク賞を受賞した中でも最も優秀な一人で、驚異的な才能を持つピアニスト」とし、「彼は充分すぎるほどの技術を持っている。しかし、もっと重要なのは彼のイマジネーションと感性だ。」と評している。

    また、ジェローム・D・ベームはニューヨーク・ヘラルド・トリビューンで更に熱狂的に書いている。
「カペル氏の演奏はコンサートホールを出てからもなお、高揚した気分を私に残した。彼の湧き立つようなイマジネーションと感性はショパンのヘ長調のバラードにおいて完全に表現されていた。それは技術的に輝かしく演奏されたというわけではないが、最近ではめずらしく、柔らかさと熱情をもち、あの偉大なポーランド人の語法を真に解き明かすものであった。今シーズン、これと同じくらい満足させてくれる演奏を聴くことができれば、それは幸運なことだと考えるべきだろう。」

    ニューヨークの音楽界は狭い。ベームの賛辞によってウィリアム・カペルの名前は瞬く間に広まり、ウィリアムは10代にしてすでに耳の肥えたニューヨークっ子たちの間で話題のピアニストとなったのである。




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