ウィリアム・カペル・エディション Vol.1 レビュー




ウィリアム・カペル・エディション Vol. 1

収録曲:ショパン /マズルカ Op.6-2, Op.7-2, Op.7-5, Op.17-2, Op.17-3, Op.17-4, Op.24-1, Op.24-3, Op.30-3, Op.33-1, Op.33-3, Op.33-4, Op.41-1, Op.41-2, Op.50-2, Op.50-3, Op.56-3, Op.59-1, Op.59-2, Op.63-2, Op.63-3, Op.67-2, Op.67-3, Op.67-4, Op.68-2, Op.68-3, Op.68-4, Op.posth. "Notre temps", Op.posth. in B-flat


■カペルのマズルカ。■

    珠玉のシリーズ第1巻目としてショパンのマズルカが取上げられたのはまことに心憎い選択である。というのもマズルカは、カペルの芸術のコアそのものでありながら、カペルの仕事の中においてどこかしら異質な感触を与える作品であるからだ。
    ショパンは生涯にわたってマズルカを作曲し続けたが、カペルもまたその短い生涯を通してマズルカを愛奏し続けた。14歳の時にルービンシュタインとマズルカを演奏しあったというエピソードは有名であるし、プロ・デビューの後もプライベートで頻繁にマズルカを演奏していたという。自分の弟子にマズルカを弾いて聴かせるのもお気に入りの習慣であった。想像するに、マズルカはピアノとの関係が始まった当初からカペルの一番身近にある家族や親しい友人のような存在の音楽であったのではなかろうか。
    カペルは通常、楽曲の隅から隅まで綿密に検討を重ねて音楽を創っていくタイプの演奏家であった。 しかし、マズルカにおいては明らかに状況を異にしている。このアルバムの録音に立ち会ったプロデューサーのファイファーによれば、カペルのマズルカの録音方法はまったくユニークなものであった。計画的にプログラムを組んでレコーディングに臨むのではなく、彼がその場でインスピレーションを受けたマズルカをランダムに録音していったのだという。確かに録音の記録をみると、殆どが俗に言う「一発録り」で録音されている。気の毒なファイファー氏は、後からどの曲を演奏したのか彼にいちいち確認しなければならなかった - 楽譜さえスタジオに用意されていなかったのである。
    この逸話が示唆するところのものは、つまり、マズルカの録音に対してカペルは他の曲の場合とは異なり、微に入り細をうがつリハーサルを行わなかったということである。勿論、ここで聴かれるマズルカは全てカペルの手中に完全に収められている。しかし、それは例えばショパンの3番のソナタで聴かれるような濃厚な完璧さではなく、幾分遊びと余裕が残された完璧さである。これをただちに即興的と呼ぶには語弊が生じるかもしれないが、彼のスタジオ録音の中にあってはかなり自由な感触が強いものとして数えられよう。
    一般的にマズルカ集の録音が画一的で生気に欠ける出来栄えになってしまうのは、おそらくピアニストが録音に当たってさらい過ぎる傾向にあるからだ。カペルの不意打ちのようなレコーディング方法は、彼がその陥りやすい危険性を充分に認識していた証拠といえよう。マズルカの場合、弾きこむことによって作品と自分との間にある緊張感がゆるみ、色彩と感性に乏しい結果になることを彼は理解していたのである。そして幸運なことに、彼にはそのような危険を冒してまで家族のように親しんできたマズルカたちを改めてさらいこむ必要もなかった。
    事実、Op.17-3 のマズルカについては僅か2ヶ月前に録音された別ヴァージョンが残っている(エディションVol.9収録)が、カペルのアプローチはそれぞれに個性的である。両者間に含まれるフレーズやアーティキュレーションの多様さは、練りに練ったアイディアというより、演奏者と音楽が出会った時に生じる一瞬の閃光の煌きとして捉えるほうが相応しい。そしてその煌きはまた、カペルのマズルカに常に新鮮な生命力と輝きをもたらしているものの正体に他ならないのである。
    カペルのマズルカは最も彼の肉声に近い音楽のような気がする。それも、真摯な研究と努力の結果ではなく、あくまで自然体のカペルの肉声である。マズルカこそは、カペルが気ままにミューズと戯れることを許した唯一の作品ではなかったか。カペルがマズルカを演奏するのではなく、マズルカがカペルを捕まえた。そのような演奏が、ここには溢れている。


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