1922年ニューヨーク生まれ。 ニューヨークでドロテア・ラフォレットロ、フィラデルフィアおよびジュリアード音楽院にてオルガ・サマロフに師事。 1940年フィラデルフィア管弦楽団青年コンクール優勝、またワルター・W.ナウムブルク賞受賞。 1941年ニューヨーク・タウンホールにて「その年の30歳以下の傑出した音楽家」としてリサイタル・デビュー。 その演奏は聴衆や批評家からも高く評価され、それ以後合衆国内、ヨーロッパ、南米、オーストラリアにおける演奏旅行や メジャー・オーケストラとの共演、プラード音楽祭参加等、華々しい 演奏活動を行う。また室内楽の分野でも才能を発揮、特にハイフェッツからの信望は厚く、多くの録音が予定されていた。しかし、デビューから12年後の1953年、オーストラリアでの演奏旅行の帰路に飛行機事故に遭遇、 31歳という若さで帰らぬ人となる。この悲報を受けて、やはり同時代の天才ピアニスト、ホロビッツは 「これで私が一番だ」とカペルへの最高の賛辞を贈ったという。